コロナ禍での退職
「これで良いのか・・・」
コロナ禍というのに、2021年1月で会社を自己都合退職します。
転機を迎えた今、振り返って反省と課題にしているのは、
「適性もそれなりにあり、かつ、やりたいことが見つかっていない」
「好きでない仕事でも、頑張れば何とかなると思っていた!」
ことです。
「ストレス産業」の仕事を月90時間以上残業して、無理難題に直面していたら、ココロが悲鳴を上げていました。
2020年2月のことです。
そこで考え、今まで心の中に封印していた「田舎暮らし」の夢を妻に相談しました。
すると意外にも、妻も賛成してくれました。そして、瀬戸内海の近くへの移住に向けての検討を始めました。
このブログでは、「移住」「田舎暮らし」趣味である「温泉」を綴っていきます。
そして、ふーちゃんがどんな人物なのか、自己紹介をします。
小学生時代
山口県と広島県境の清流小瀬川と山に囲まれたへき地に生まれ、大学進学までを過ごしました。
川はきれいで、しじみ、カニ、うなぎ、川エビなど川の幸を獲って食べるのが好きでした。
小学5年になると、その川に異変が起きます。
上流に西日本でも2、3本の指にはいる大型ダム「弥栄ダム」の建設が始まった影響で、川は汚れ、ひどい時には、死んだ魚が大量に流れてくるのです。
もう「清流と川の幸」が戻ってこないことは、少年にも明らかです。
そんな時、父がダムの建設現場に連れていってくれます。
「このダムが出来たら、工場地帯の水不足が解消し、勤める会社の紙の生産も安定する」
「県内外の広い地域の水不足がなくなる」
とその利点を教えてくれました。
当時の僕にとって「社会に興味を持つ」一番の教科書だったように思い、この時のことをよく覚えています。
この「弥栄ダム」は、移住候補地の山口県の周防大島まで水を供給しています。そんなところにも、今と思わぬつながりがあります。
中学〜高校時代
中学に入ると、好きで得意だった陸上長距離をやりたいと陸上部に入部しました。
学校から5キロ離れた家の近くまで走って、また走って学校に戻り、またそこから
自転車で家に帰り、その後、7キロ離れた塾への往復…という生活に、すぐ嫌気が指し、柔道部に入りました。
伯父が高校時代に県大会で優勝し、柔道で大学に行き、柔道で大手企業に就職した人だったので、「血を引いてたら強くなれそう・・・」と思い入部しましたが、見事期待を裏切られました。
ただ、高校時代はチームのキャプテン兼監督をさせてもらいました。
当時は女子の柔道ブームで女子の選手も多く、人の上に立つことの難しさを勉強できました。
それからの人生、あまり人の上に立ってないですが、「組織」での役割への意識と格闘技で心身を鍛えたことは役に立っているように感じます。
選手としてピークを迎えた時期に、不運な頭蓋内出血をして、選手として最後を迎えたことは、その後の人生も「思い通りにならないこと」が多く、精神的にも支えになっています。
関西での大学時代
1年浪人して、関西の「お坊ちゃま、お嬢様」大学に入学。
キャンパスには、広島の田舎ではまず出会わなかった、きれいなかわいい女の子がたくさんいました。
ご多分に漏れず、そんな女の子に恋をして、恋破れて・・・そこから「脱キャンパスライフ♡」がはじまります。笑
深夜バイトで月18万円稼ぎ、学校が休暇に入ると、海外へバックパッカーの旅へ。
沢木耕太郎の「深夜特急」に憧れて、一人でストイックに休暇のたび旅を続けました。
旅先では、ユースホステルやバックパッカーズに泊まり旅先で多くの人生の「先輩」と悩みや夢を語り合いました。
本当に旅が楽しく、好きになりました。
そんな中「旅するような仕事」ってなんだろう?って思い浮かべたのが、「取材する仕事」でした。
夜な夜なアパートのロフトで「Number」などのスポーツ関連の雑誌や本を読み漁っていたこともあり、スポーツ紙への就職を目指しましたが、内定には至らず、唯一内定を得た農業関係の業界新聞に就職しました。
関西の大学ということで、3枚目の僕に先輩が求めたのは「笑い」でした。
ソフトボールをやっていましたが、「場を盛り上げろ!」とよく言われたものです。
3年、5年、時が経つにつれ、会話でもSNSなどのテキストでも、少しは面白く、楽しくコミュニケーションできるようになったのは、関西時代の「教え」が役立っています。
関西に行かなければ、妻との結婚もなかったように思います。
東京での社会人時代
大学を出て、就職のため、東京に上京しました。
大阪か広島で働きたかったのですが、唯一の内定先で、就職氷河期でもあり、ぜいたくは言ってられませんでした。
配属になったのは編集の仕事で、紙面のレイアウトを考えたり、取材で全国各地を巡ったり…若くして、全国各地の優秀な農業関係者の方にお会いできたことは、人として勉強になりました。
農業の男女共同参画の取材で女性の花苗経営者から「夫婦がお互いの『やりたいこと』を応援し合う気持ちを持つことが一番大切」と言われたことは、10年後に結婚してからも、妻のやりたいことを迷わず尊重できる大きな理由となっています。
やりがいのある仕事でしたが、ストレスに弱い体質もあって、十二指腸潰瘍になり、総務人事の部署に異動して、仕事を続けました。
その後、30歳になったことをきっかけに、その先の人生を考え、住みごごちの良い地元にUターンすることになりました。
25歳の夏休みにニュージーランドへ旅行した時に、大きな出会いをします。
「温泉」との出会いです。
ロトルアという日本で例えると、軽井沢のような保養地なのですが、そこの日本と違う「温泉文化」を面白いなと思ったことがきっかけで、Uターン後、「温泉おたく」として開花します。
広島にUターンして
広島に戻ってからは、まず再就職で苦労しました。
時代がリーマンショック後の不景気で、失業者が急増した時代でした。
受けても、受けても受かりませんでしたが、唯一、内定をいただいた、地元の不動産管理会社に再就職が決まりました。
俗にいう「ブラック企業」で退職者も多く、仕事も家賃の督促業務などもあり、ストレスの溜まる仕事です。
そこで役立ってくれたのが「良質の温泉」です。
「温泉」については、温泉カテゴリーに綴っていきます。